福岡政行の「できることから」

ホーム > 福岡政行の「できることから」

福岡政行の「できることから」

2014.07.28 2011年3月11日を振り返って~被災地ボランティアの心~⑬

◆「三つの奇跡は奇跡ではない」と防災士斎藤やすのりの熱いメッセージ―東北福祉大学のシンポジウムにて―

被災地の中で多くの話を聞きました、今日はその中で、私は気象予報士です。未来を予想します。例えば今年の冬の予報はめちゃくちゃ寒くなりますよ皆さん、すごい雪が沢山降りますよ。とかそういう話をしています。防災士においても私はやはり未来を拓こうということで、今回の震災において奇跡がたくさん起きました。その三つの奇跡を今日は一つづつ紹介したいと思います。今回の地震で、たくさんの、多くの尊い命が失われました、亡くなりました。ただ、沿岸部の中で死者・行方不明者が1人もいなかったという奇跡の町があるんです、その事例を今日は紹介したいと思います。

①岩手県洋野町―消防団の任務―

岩手県の北部に位置する町です。

消防団の任務とは一体何なのか。この洋野町と言うのは、明治三陸津波の時に254人、昭和三陸津波の時には107人亡くなった方がいます。昭和三陸津波の3月3日に、毎年その日の早朝に防災訓練をします。早朝なので人が集まらなくなってしまったんですね。それからだんだんだんだん防災意識が薄れていってしまいました。それで訓練を日曜の日中に変えて、いかに命を守るか、というところに焦点を絞って洋野町は防災訓練をするようになりました。ある年は消防団の退避行動、ある年は消防の道路封鎖等々です。今までは消防団の方々が、津波注意報が出ていても港のほうに行って、津波の様子を見に行っていたりしたんです。これはやはり危険だろう、ということでその防災訓練を境に、消防団は「任務を終えたら避難する」ということに変えました。これが功を奏し、消防団が任務を終えたら積極的に丘へ、山の方へ逃げるようになった。それを見て、町民の方もどんどんどんどん高台のほうへ逃げ、死者、行方不明者が1人もいなかったということに、繋がったということです。これは私は一つの成功事例だと思っております。

②岩手県釜石市―防災教育―

釜石市は教育に大変な力を注いでおります、残念ながら釜石では死者、行方不明者1180人だったんですが、実は小中学生の犠牲者は、残念ながら5人出てしまいましたが、その5人は風邪を引かれていて病気だったり、あるいは中学生の方はおばあちゃんの命を守ろうとして一度避難所に行ったんだけども、また戻ってその間に亡くなってしまったということだったんですが、なんと2921人の児童の命は守った。99.8%の生存率を持っているといことです。この釜石、なぜこれだけの子どもの命を守ることができたのかというと、徹底的な防災教育ということがされていました。津波が襲ってきてもできることがある、それは何か、「逃げる」ことだ。それを徹底して学校で教えていました。この学校の教育と言うものがとても良くできていて、小学校で理科、算数、国語、家庭科、社会、全ての教科に防災を、津波防災というものを組み込んでいるんです。どういうことかというと、小学校3年生の算数の授業では「津波は何度も来るので避難したら3時間はそのままじっとしていることが必要です。では、3時間とは何分ですか?」このように子どもたちに植え込んでいくんです。それから、中学校の英語の時間には海外の津波に関する図書やテキストを使って英語の授業を進めていくんです。それから家庭科の時間には「避難所でどのようにして自炊できるのか」ということを徹底して小学校、中学校で教えたことで、子ども達の防災への啓発というものが成されました。

やはり防災教育というものは将来の町のコミュニティーを支えるのは子ども達ですから、このような形で徹底的に子どもたちに植え込むということは私はものすごく大切なことだと思います。

③茨城県大洗町―情報・町長の覚悟―

最後に大洗町という茨城県のアンコウのとれる町を紹介します。大洗町は4メートルの津波が襲いました。そして庁舎、消防署、1階まで全部津波で飲まれました。ところが、死者・行方不明者はゼロです。なぜかというと、2つのキーワードがあります、それは「情報」と「町長の覚悟」です。

まず情報とは、この大洗町というのは7000戸すべてに情報端末配っていたんです。その情報端末というのはラジオ程の大きさの無線のもので、そこに毎日のように紫外線情報とか、天気予報だとか気象情報、警報・注意報、町のお知らせが入ってくるんです。だから、町民はみんなそれを楽しみにして聞いているわけです。つまり皆、毎日電源を入れて電池を切らすことなく使っている。その端末で津波警報を出して、全員にその情報行き届いて逃げることができた。しかもその津波警報・注意報の伝え方が、大洗町町長と消防のトップが覚悟をもって、命がけで町民の命を守ろうというあるメッセージを出したんです。それが何かというと「緊急避難命令」というものです。緊急避難命令というのは、国の制度でも、県の制度でも、市の制度でも無いんです。突然出したんです。「命令」というかたちで。それはなぜかというと町長が「町民の命を何とか守りたいから『緊急避難命令』を出すぞ俺は!」と言ってそれまでの「避難してください」から「全員避難せよ!」と命令形で大洗の町民に端末をもってして報じた。これにより死者・行方不明者がゼロだったという素晴らしい事例です。

これまで紹介してきた「洋野町の奇跡」「釜石の奇跡」「大洗の奇跡」を「3つの奇跡」と言いますが、これは奇跡でもなんでもないということに、皆さんは気づきますか。常日頃から防災に対して高い意識を持ってということです。どれだけハードを整理してもその想定を超える日は必ず訪れます。自然の刃というのは人間の技術を変えるんです。これは原発災害でも私たちは痛い程分かったはずです。だからこそハードに頼るのではなく、ハードを進化させるのではなくて人間の命を守るのは人間なんだということを原点にして教育や情報や人の育成やあるいは人と人とのつながり、ご近所づきあいのつながり、こういうことを強化することが人の命を守ることにつながるのではないか。ということが今回の東日本大震災の教訓なのではないかと思います。


お読み頂き有難うございます。
3.11以降、ささやかながら続けているボランティア活動を通して、見たこと、聞いたこと、そしてそこから感じること、考えることを「2011年3月11日を振り返って~被災地ボランティアの心~」として、①~⑬にわたって書かせていただきました。

2014.07.28 2011年3月11日を振り返って~被災地ボランティアの心~⑫

◆神戸のおばちゃんたちがやってきた!
―双葉町の被災者の人たちとの交流―

1995年1月17日阪神淡路の大地震。多くの人が亡くなった。神戸の街は全て傾いた。壊れた建物の中で亡くなった人がほとんどで、東日本大震災とは違う。東日本大震災の大津波の被災者は、ほとんどが水死だった。大阪の人たちも神戸の人たちも一緒に六甲の山の復興住宅に住んでいる。県も府も関係ない。日本人なんだ。在日のおばあちゃんもいた。日本に住んでいる人間だ。みんな一緒なんだ。そういって復興住宅にみんなが住んだ。いろいろな人たちが集まってきた。それで六甲の山の上に、11階建の復興住宅ができた。神戸市内からの地下鉄は、そのまま山にもつながっている。いまでもお付き合いをしている。仲間の1人が亡くなったとき、お線香をあげに行った。2DKに2LDKもあった。決して広くはないが1人住まいや、あるいは老夫婦2人では十分である。「窓を開けて六甲の山の上から神戸の夜景や、瀬戸内海の海を見ると綺麗なんだよ」と説明してくれた。おばあちゃんたちが手伝う、ふれあいセンターでみんなと助け合って頑張っている。その姿を目にすることができた。今日はカラオケ大会、今日は何とか大会、明日は何とか大会。いろんな会がある。若干認知症の出たおばあちゃんも、他の人たちがバックアップをしている。そのおばあちゃんの部屋に、一日三回のご飯をお届けする。そして何かがあれば連れ出す。元気である事は間違いない。最近会ったとき、私は18年半行っているが、5年前までは「福岡先生また来てくれたの」と喜んでくれた。とっても上品で清楚な方であり、私の母に良く似ている。だから今度カラオケ大会やるから一緒にやってみようかとも言われたが、最近は「誰だっけねー」と言われてしまう。私の百歳になった母と同じだが、それでもこのおばあちゃんたちが埼玉県の騎西高校の双葉町の人たちに会いに来てくれた。「とにかくみんなで一緒に住んだら同じだよ」大阪のおばちゃんたちは元気だ。それでもみんな75歳を超えていた。「あれから18年半、みんな元気で復興住宅に入って生活すれば、明日という日は見えてくるから。みなさんもぜひ復興住宅を福島でなくこの埼玉県でいいんだったら、この加須に作ってもらって、そこで新しく仲間になって一緒に住めばいい」幸いみんな双葉町の人だ、顔見知りである。そして1つできれば大熊の人も、あるいは富岡の人も、浪江の人も「じゃあ埼玉に住んでみようか」と、そうやっていけば復興が進むかもしれない。

南三陸、気仙沼あるいは陸前高田に行って復興住宅は平成27年4月から本格的に建設と聞く。「そんな時間があるのか」と心の中でつぶやく。今平成25年の11月である。「3度目の冬もまた仮設で、そして騎西高校の教室でおばあちゃんたちは暮らす。来年、再来年、もしかしたらさらに2年3年、寒い冬を仮設住宅でひっそり寂しく暮らすのか」と思うと胸が詰まる。

そして「神戸のおばあちゃんと双葉町のおばあちゃんたちは友達になれればいい」とゼミのOGが言う。そんな日が来るかもしれない。神戸のおばあちゃんたちは翌日、東京に泊まった後、「スカイツリーに行きたい」と言うのでゼミ生が案内をした。「もう東京に来れないかもしれないから」と笑っていた。私は「そんなことないよ、おばあちゃんたち元気だからまだまだ東京オリンピックも見られるんじゃないの」と言うとニヤッと笑って、「その時も、先生案内してね」と関西のおばあちゃん。元気だ。

2014.07.28 2011年3月11日を振り返って~被災地ボランティアの心~⑪

◆「つらいけど埼玉に住みたいんです」と双葉町の人たち
―「もう双葉には帰れない、この加須に住んで安心して暮らしたい」80歳を超えるおばあちゃん―

「ふるさとの山は懐かしいけどもう帰れない。7月の1時帰宅で仏壇の後ろでビービ―と線量計の音がする、奥の部屋も」と寂しそうに話す。「孫と一緒に遊びたいし、今度の借り上げ住宅は3DK。「みんな呼んでやろうと思って。長生きしますよ。ニコニコ合唱団やりながらね…」と話す人もいる。
「みんなと会えなくなったらどうしよう。夜も眠れないんです。合唱団の練習、週に3日みんなと会って歌の練習をし、みんなといろんなものを食べてお喋りをする。この時間が生き甲斐なんです」と80をすぎるおばあちゃん。「大丈夫、合唱団の練習は続けられるようになりますよ…」と学生、そして地元のボランティアの人も活動に加わる。

埼玉県の合唱団の人とニコニコ合唱団の共演。100人近くの観客がいた。でも騎西高校から多くの人が借り上げ住宅や仮設住宅に戻る。中には福島県のいわき市に戻った人もいる。
「10人くらいしか残らないかもしれない」と騎西高校のボランティアの世話人。

その人たちの行く場所もまだわからない。「こんな大きな体育館や教室で、10人ぐらい。寂しいなぁ」と言う人もいる。心のケアが大切になってくると思った。
「まとまって住めれば良いのにね」と、早く復興住宅を加須で作りたいという要望が500人近く集まった。約300世帯の人たちである。福島県庁の人たちは人口が減るからなかなかOKのゴーサインを出してくれない。しかし、双葉町の人は、双葉町町民であるし福島県民だけど、なんといったって日本国国民である。憲法25条の生存権、〈健康で文化的な最低限度の生活〉は誰にも保証されている。友人の弁護士にも相談し、一刻も早く復興住宅ができればと活動している。

例えば8階建ての復興住宅を埼玉県の加須市に作る。その8階建ての家の5階の部分、あるいは6階の部分も必要になるかもしれないが、シェアハウスを作る。ひとり暮らしのおばあちゃんやおじいちゃんたちがシェアする。各部屋で、一人一人暮らす。トイレも付いている。お風呂と食堂が共通。みんなが談笑する応接間は、ソファを2つ3つ置いて大きなテレビも設置する。そんなシェアハウス的なものを作れば、1人住まいの人も、介護が必要になったときは共同のお風呂にのんびりと入ることもできる。もちろん個人で入るお風呂も作りたい。家族のいる人は、7階・8階などの他の階に。できれば1階にコンビニを入れてもらいたい。100円ショップも入れてもらいたい。薬局も入れてもらいたい。そこで3時間でも4時間でも時給1000円とは言わない。500円でも良い。70、80歳のおばあちゃんたちがお手伝いをする。これが本当の復興住宅だと思っている。いろんな人に話すと「それがいい、それがいい」と、「とにかく協力をしていきたい。「これからも一歩一歩が大事ですよ。」と声を掛け合っている。被災者の皆さんと寄り添って生きて行きたいと思う。

近くにスーパーマーケットなど、買い物難民にならないようにいろんなものを作っていくことだ。畑を借りて椎茸を作る人もいる。「女房がやっている畑を、少し手伝ってるだけ」と75歳の大先輩。「まだまだやれるけど…おばあちゃんたちの方が元気だ」と、おじいちゃんたちの方が私も含めてなんとなく圧倒されている。

2014.07.28 2011年3月11日を振り返って~被災地ボランティアの心~⑩

◆女優の吉沢京子さんが私たちのまとめたボランティアノートからいくつかの詩を朗読してくれた
―「パンが食べたいよ」―

お昼少し前に幼稚園に着いた。小学校も中学校も一緒の仮設の幼稚園。お昼の弁当が届いていた。100個以上。
「大きな仕出し弁当ですね」と園長先生に言う。
園長先生は弁当を開けて、「子どもには多すぎて、そして、サバの味噌には…」と顔をしかめる。そして子どもたちが「パンが食べたい」と言うんです。

帰りの車の中、学生たちは「ゴパンを持っていこう」と話してる。お米からパンができるらしい。
「スープも、ジャムも一緒にね」とがっつきの学生。大学に戻ってすぐにゼミ生たちはGOPANを幼稚園へ。「子どもたちが喜んでパンにジャムを塗って食べています。スープも」と写真つきの礼状。いまでも研究室に子供たちの笑顔が残っている。
吉沢京子さんは、涙を浮かべて詩を読んでいた。私たちのボランティアにも同行してくれる。感謝大だ。

2014.07.28 2011年3月11日を振り返って~被災地ボランティアの心~⑨

◆つらい人に一本の手を差し伸べれば幸せになる!
―相馬雪香さんに教わった手を差し伸べることの大切さ―

私のボランティアの先生は、小山内美江子先生と相馬雪香さんのお二人である。私が事務局長をやっているアシストジャパンも、初代会長は相馬雪香さんにお願いをした。副会長は筑紫哲也さんだった。筑紫さんと私は相馬雪香先生の弟子でもある。
「ボランティアの原点は汗をかくことです。お金だけではダメなんです。日本人が、日の丸をつけて汗をかくということが海外では大事なのです。一本の手を差し伸べるだけでもボランティアなんですよ」

日本のボランティアの草分け的存在、「難民を助ける会」の会長だった相馬雪香さん。尾崎行雄を父に持つ、その三女である。80歳を過ぎてインドに旅行する。体調も悪くならない。友人の鞄持ちの大学教授は下痢をしたと言っていた。お体がとにかくタフだ。何度も何度もお叱りをいただく。「政治がたるんでいる」と朝、電話が来る。「何やってんですか福岡さん、こんな政治家はなんとかしなさい」とよくお叱りをいただく。よく怒るので密かに筑紫さんと「怒るおばあちゃん、怒婆ちゃんだね」と言って、本人に聞こえたこともある。

国際ボランティアの世界では、日本人はお金を出すだけだと言われている。しかしいま、海外の現場で日本人ボランティアは汗をかき続けている。この20年で大きく変わった。その先駆者である相馬雪香さんである。東日本の被災地でも、ぬいぐるみの1つでも届けることで子供たちの顔に笑顔が浮かぶ。そして、被災者の人と話をする。「また来てください」と仮設のおばあちゃんに言われた時、しゃがみ込んでおばあちゃんの手を握り、ゼミ生が返事をする。

先輩が「お前も少しは役に立ったんだ」と新ゼミ生に話してる。先輩が後輩にいろいろなことを伝授するのもゼミの伝統だ。

  • サイトのご利用について
  • ご入会について
  • 会員限定コンテンツ
  • 会員規約
  • 個人情報の取り扱いについて
  • 会員登録フォーム

お問い合わせ

IDを入力してください。

PASSWORDを入力してください。

  • パスワードを忘れた方へ
福岡政行最新著書

福島第一原発は、あの日から5年経った今でも、アンダーコントロールではありません。原発事故は収束していません。安部総理のオリンピック誘致のための発言も、野田総理の原発収束発言も許されないものです。そ...

  • サポート企業募集のご案内